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日本型キリスト教の教理問答

Catechism on Japanized Christianity
第零版alpha01
最終更新日――2013年7月7日(日)

目次

[第一節]概要

問一・一 この経典には何が書かれてるんですか。

この経典(「日本型キリスト教の教理問答」)は、 「日本型キリスト教」という宗教の教義を 問答形式で記述したものです。

問一・二 日本型キリスト教って何ですか。

この経典の中で記述されている「日本型キリスト教」というのは、 この経典の筆者である私(大黒学)が開発した、 キリスト教の教派の一つのことです。 この教派は、オリジナルなキリスト教に対して、 多くの日本人に親しんでもらえるようにするためのアレンジを 加えたものです。

問一・三 日本型キリスト教って、 キリスト教としては異端なんですか。

いいえ、日本型キリスト教はキリスト教の異端ではなく、 キリスト教の正統的な一教派です。

キリスト教にはさまざまな教派がありますが、 それらの中には、異端とみなされているものもあります。 それらが異端とみなされる理由は、 「キリスト教であれば、最低限、 この教義は真であるとみとめなければならない」という、 キリスト教の核となる部分に逸脱があるからです。

日本型キリスト教は、 オリジナルなキリスト教に対してアレンジを加えたものですが、 異端とみなされることなく、 キリスト教の正統的な一教派であるとみなしてもらえるように、 キリスト教の教義の核となる部分には アレンジが加わらないように注意して設計されています。

[第二節]神

問二・一 日本型キリスト教では、 何を崇拝の対象としてるんですか。

日本型キリスト教における崇拝の対象は、 「三位一体の神」です。

「三位一体の神」というのは、父なる神、子なる神、 そして聖霊が一体となった一柱の神のことです。 父なる神、子なる神、 聖霊のそれぞれは「位格」と呼ばれる神ですが、 三柱の神が存在するわけではなくて、 それらは一体となって一柱の神として存在しています。

父なる神というのは、万物の創造者のことです。

子なる神というのは、イエス・キリストのことです。 彼は、地上に降臨し、マリアから肉を受け、 人類の罪をあがなうために十字架に掛けられて死に至り、 三日目に復活し、そして昇天しました。

聖霊というのは、万物に命を与える者のことです。

問二・二 「三位一体の神」というのは、私には理解不能です。 そんな私が、 「私は日本型キリスト教の信者です」 と自称していいものなんでしょうか。

はい、まったく問題はありません。

日本型キリスト教に限らず、どんなキリスト教の教派でも、 「三位一体の神」というのが何なのか、 完全に理解している信者というのはほんの一部分で、 少ししか理解していない信者が大半です。 したがって、たとえそれを理解していない人が、 「私は日本型キリスト教の信者です」と自称したとしても、 それを非難する人はいないでしょう。

しかし、理解しようとする姿勢は必要です。 キリスト教の「神父」「牧師」「神学者」と呼ばれる人々は、 キリスト教の教義についての専門家ですので、 そのような人々と話をする機会があれば、 「三位一体の神」に関する教義のうちで、 あなたが理解できないところについて質問してみましょう。 おそらく、親切に教えてくれると思います。

問二・三 キリスト教ではイエス・キリストは神なんですよね。 ということは、彼は人間じゃないっていうことですか。

いいえ、 イエス・キリストは神であるとともに人間でもあります。

イエス・キリストは神であってかつ人間でもあるという教説、 すなわち、 イエス・キリストは神性と人性の両方を持っているという教説は、 「両性説」あるいは「両性論」と呼ばれます。 それに対して、 イエス・キリストが持つ人性は神性に吸収されているという教説は、 「単性説」あるいは「単性論」と呼ばれます。 単性説は、 四五一年のカルケドン公会議で異端として排斥されましたので、 日本型キリスト教も、 単性説ではなく両性説を教義として採用しています。

問二・四 キリスト教というのは、 キリスト教の神様以外の神様の存在を否定するんですよね。 日本型キリスト教もそうなんですか。

いいえ、日本型キリスト教は、 「三位一体の神」以外の神の存在を否定しません。 神道の神々の存在も否定しませんし、 仏教の諸仏(菩薩、明王、天部なども含む)の存在も 否定しませんし、 道教の神々の存在も否定しませんし、 その他の宗教の神々も否定しません。

問二・五 キリスト教の神様以外の神様の存在を否定しないとすると、 日本型キリスト教は多神教だということになるんじゃないですか。

日本型キリスト教に限らず、 キリスト教のいかなる教派に関しても、 それは一神教なのか多神教なのかという問いには、 ほとんど意味がありません。 なぜなら、キリスト教は、 「神」という言葉をどのような意味で使うかということによって、 一神教に分類することも多神教に分類することも可能だからです。

キリスト教においては、 「「三位一体の神」のほかに神は存在しない」と考えられています。 この場合の「神」という言葉は、「三位一体の神」の同義語です。 「三位一体の神」は一柱しか存在しませんので、 この意味で「神」という言葉を使うとすると、 キリスト教は一神教に分類されることになります。 日本型キリスト教も例外ではありません。

しかし、「神」という日本語の言葉は、 必ずしも「三位一体の神」という意味だけで 使われるわけではありません。 日本語では、「神」という言葉は多くの場合、 「聖性を持つ霊的な存在者」というような意味で使われます。 この意味で「神」という言葉を使うとすると、 キリスト教は多神教に分類されることになります。 なぜなら、キリスト教においても、マリアや聖人や聖遺物のような、 聖性を持つ霊的な存在者の存在が認められているからです。

したがって、キリスト教は、 「神」という言葉をどのように解釈するかということに応じて、 一神教に分類することもできるし、 多神教に分類することもできるということになります。

問二・六 日本型キリスト教の信者は、 神道の神々や仏教の諸仏を崇拝してもかまわないのですか。

いいえ、日本型キリスト教の信者は、 神道の神々や仏教の諸仏を崇拝してはいけません。 ただし、彼らを崇敬することはかまいません。

キリスト教においては、 崇拝(ラトレイア)の対象にすることが許されるのは、 「三位一体の神」だけです。 マリアや聖人や聖遺物を崇拝の対象にすることは許されません。 しかし、マリアや聖人や聖遺物も、 崇敬(プロスキュネーシス)の対象にすることは許されています。

日本型キリスト教においても、その点は同じです。 そして、日本型キリスト教においては、 マリアや聖人や聖遺物に加えて、 神道の神々や仏教の諸仏やその他の宗教の神々も、 崇敬の対象にすることが許されます。

「崇敬」(プロスキュネーシス)というのは、 「執り成しを依頼する」ということです。 「三位一体の神」というのは、 人間にとってそれほど身近な神ではありませんので、 「自身の願いを「三位一体の神」に届けてほしい」と、 人間にとって身近な神々に依頼することが崇敬です。

問二・七 日本型キリスト教の信者が神社やお寺に参拝するときって、 やっぱり十字を切らないといけないんですか。

いいえ、神社では神道の作法、 お寺では仏教の作法に則って参拝してください。

[第三節]最後の審判

問三・一 最後の審判って何ですか。

「最後の審判」というのは、 「世界の終わり」が発生する時点において実施される、 イエス・キリストによる審判のことです。

イエス・キリストは、 「世界の終わり」が発生する時点で再び地上に降臨します。 これをイエス・キリストの「再臨」と言います。 再臨したイエス・キリストは、すべての死者を復活させ、 彼らを裁きます。 彼らは、その判決に応じて、 天国または地獄のどちらかへ送られることになります。

問三・二 「世界の終わり」っていうのは、いつ発生するんですか。

「世界の終わり」がいつ発生するのかということは、 はっきりとは分かりません。 十億年後かもしれませんし、五十六億七千万年後かもしれませんし、 一無量大数年後かもしれませんし、 一不可説不可説転年後かもしれませし、 グーゴルプレックスプレックス年後かもしれませんし、 期日が迫るたびに延期される、 逃げ水のような現象なのかもしれません。

問三・三 人間は、 死んでからイエス・キリストによって復活させられるまでの間、 どういう状態に置かれるんですか。

死んでからイエス・キリストによって復活させられるまでの間、 人間がどのような状態に置かれるのかということについては、 死んでみないと分かりません。 黄泉の国で暮らすことになるのかもしれませんし、 極楽浄土で暮らすことになるのかもしれませんし、 輪廻転生を繰り返すことになるのかもしれませんし、 千の風になって吹きわたることになるのかもしれませんし、……

問三・四 どのような人が天国へ送られ、 どのような人が地獄へ送られるのですか。

ある人が天国へ送られるか地獄へ送られるかという 判断の基準は、 その人の原罪が許されているかどうかということです。 原罪が許されている人は天国へ送られ、 原罪が許されていない人は地獄へ送られます。

原罪とは何かということについては、 問四・一を参照してください。

[第四節]洗礼

問四・一 原罪って何ですか。

「原罪」というのは、すべての人間が負っている、 神の命令に背いた罪のことです。

聖書には、 人類の始祖であるアダムとエバが、 食べることを神から禁じられていた 知識の木の果実を食べるというエピソードがあります。 原罪というのは、 彼らが犯した罪がすべての人間に波及したもののことです。

問四・二 アダムとエバって、実在した人物なんですか。

いいえ、アダムとエバは、実在した人物ではありません。

アダムとエバが知識の木の果実を食べるというエピソードは、 原罪というものの起源を寓話的に説明するためのものです。

問四・三 洗礼って何ですか。

「洗礼」(バプテスマ)というのは、 原罪が許されるための必要十分条件である儀式のことです。 すなわち、いかなる人間も、洗礼を受ければその人の原罪は許され、 洗礼を受けなければその人の原罪は許されないということです。

問三・四で述べたように、 天国か地獄かという最後の審判における判断の基準は、 原罪が許されているかどうかです。 原罪が許されている人は天国へ送られ、 原罪が許されていない人は地獄へ送られます。 原罪が許されるための必要十分条件は洗礼を受けることですから、 洗礼を受けることは、 天国へ送られるための必要十分条件でもあるということになります。

問四・四 私は、天国へ行きたいので洗礼を受けたいのですが、 どうすれば受けることができるんですか。

洗礼は、受けたいと望まなくても、 死後に奪衣婆(脱エバ)から強制的に授けられます。

すべての人間は、死んだのち、 三途の川で奪衣婆に出会うことになります。 彼女の使命は、生前に洗礼を受けていない人間に対して、 三途の川の水で強制的に洗礼を授けることです。

したがって、最後の審判は、 あらゆる人間を天国へ送ることになります。 地獄は、 人間が存在しない世界になることがすでに予定されています。

[第五節]教会

問五・一 教会って何ですか。

「教会」(エクレシア)というのは、 キリスト教の信者から構成される集まりのことです。

教会には、「見えない教会」と「見える教会」とがあります。 「見えない教会」というのは、過去と現在と未来に存在する、 キリスト教のすべての信者から構成される集まりのことです。 それは、人間の目には見えませんが、神の目には見える教会です。 日本型キリスト教もキリスト教の教派の一つですから、 その信者は、見えない教会に所属することになります。

「見える教会」というのは、 キリスト教の信者から構成される宗教団体のことです。 たとえば、 「正教会」「ローマ・カトリック教会」「聖公会」「日本基督教団」 「日本キリスト教会」などは、 見える教会です。

また、日本語では、 「教会」という言葉が「キリスト教の信者が集会のために使う建物」 という意味で使われることもあります。 しかし、その意味をあらわすより適切な日本語の言葉は、 「教会堂」「聖堂」「礼拝堂」などです。

問五・二 日本型キリスト教の信者であるためには、 何らかの団体に所属しないといけないんですか。

いいえ、何らかの団体に所属することは、 日本型キリスト教の信者であるための必要条件ではありません。

明治以降の日本において成立した新宗教の多くにおいては、 何らかの団体に所属することが、 その宗教の信者であるための必要条件とみなされる傾向にあります。 しかし、何らかの団体に所属するということは、 日本型キリスト教の信者であるための必要条件ではありません。

日本型キリスト教の信者であるための必要十分条件は、 この経典の中に記述されている、 日本型キリスト教の教義を信じているということです。 すなわち、いかなる人間であろうと、 その人が日本型キリスト教の教義を信じているならば、 その人は日本型キリスト教の信者ですし、 その人が日本型キリスト教の信者ならば、 その人は日本型キリスト教の教義を信じています。 どのような団体に所属しているかということは、 日本型キリスト教の信者かどうかということとは無関係です。

問五・三 日本型キリスト教の信者から構成される永続的な団体って、 存在するんですか。

いいえ、 日本型キリスト教の信者から構成される永続的な団体というものは、 おそらく存在しないでしょう。 なぜなら、日本型キリスト教においては、 永続的な団体というものの必要性が存在しないからです。

しかし、 日本型キリスト教の信者から構成される永続的ではない団体は、 しばしば出現するでしょう。 なぜなら、二名以上の信者が集まって集会をすれば、 少なくとも集合から解散までの期間は、 集まった信者たちから構成される団体が 存在することになるからです。

問五・四 日本型キリスト教の信者が集会をする場所は、 日本型キリスト教の教会堂でないといけないんですか。

いいえ、どこで集会をしても問題はありません。 信者の自宅でもかまいませんし、公共施設でもかまいませんし、 利用が可能ならば、他の宗教の施設でもかまいません。

問五・五 日本型キリスト教の信者が何人か集まって 集会をしようと思うのですが、 どんなことをすればいいんですか。

聖書の勉強会をするのがお薦めです。

集まった信者の中に聖書に詳しい人がいるなら、 その人に聖書の解説をしてもらいましょう。 詳しい人がいない場合は、輪読会のような形式でもいいでしょう。 そして、勉強会が終わったら、 お茶でも飲みながら楽しく談笑しましょう。

[第六節]聖書

問六・一 日本型キリスト教の信者も、 聖書を読まないといけないんですか。

聖書を読むことは、 日本型キリスト教の信者の義務とまでは言いませんが、 大いに推奨される実践です。

日本型キリスト教の信者かどうかということは、 その人が聖書を読むかどうかとは無関係ですから、 聖書をまったく読まない人であっても、 日本型キリスト教の教義を信じているならば、 その人は日本型キリスト教の信者だと自称することができます。 しかし、 「飛ばねえ豚はただの豚だ」という 「紅の豚」の名台詞をもじって言えば、 「聖書を読まねえ日本型キリスト教の信者は、 ただの日本型キリスト教の信者だ」ということになります。 可能な範囲内でかまいませんので、 ぜひ聖書を熟読玩味していただきたいと思います。

問六・二 聖書って、最初から順番に読まないといけないんですか。

いいえ、その必要はありません。

聖書は、 最初から順番に読まないといけないというものではありませんので、 面白そうだと思ったところから順番に読んでもかまいません。

自己流ではなくて、体系的に聖書の勉強をしたいという場合は、 どのような順番で読むのがいいかということを、 聖書に詳しい人を探して尋ねてみるといいでしょう。

問六・三 日本型キリスト教でも、 聖書に書かれてることはすべて正しいと考えられてるんですか。

いいえ、そんなことはありません。

日本型キリスト教では、 聖書というのはあくまで人間が書いたものだと考えます。 人間が書いたものですから、 その中に間違いが含まれていたとしても不思議ではありません。

[第七節]復活祭

問七・一 復活祭って何ですか。

「復活祭」(パスハ)というのは、 イエス・キリストが復活したことを祝うお祭りのことです。

問二・一で説明したように、イエス・キリストは、 十字架にかけられて死に至り、そして三日目に復活しました。 復活祭は、彼の復活を祝うお祭りです。

問七・二 復活祭って、どういう日程で開催されるんですか。

復活祭は、一年に一度、 春分の日のあとの最初の満月の日のあとの最初の日曜日に 開催されます。

年によっては、 教派によって復活祭の日程が異なっていることもあります。 そのような場合、日本型キリスト教の信者は、 それらの日程のうちのいずれを採用してもかまいません。

問七・三 日本型キリスト教では、 どんなことをして復活祭をお祝いするんですか。

日本型キリスト教には、 復活祭にはこんなことをしなさいという規定はありません。 いつもとは少し違った料理を作るなど、 いろいろと創意工夫してみてください。

[第八節]宗教多様性

問八・一 宗教多様性って何ですか。

「宗教多様性」というのは、 どれだけ多様な宗教が存在しているかという度合いのことです。

宗教多様性には、地域的宗教多様性、 個人的宗教多様性などの下位概念があります。 地域的宗教多様性というのは、 一つの地域が持つ宗教多様性のことで、 個人的宗教多様性というのは、 一人の人間が持つ宗教多様性のことです。

問八・二 あなたはいったい、どういう目的で、 日本型キリスト教なんていう キリスト教の新しい教派を開発したんですか。

私が日本型キリスト教を開発した目的は、 キリスト教を信じる日本人を増やすためです。

日本人に対しては、 これまでにもキリスト教のさまざまな教派が布教を試みてきました。 しかし、それらの教派のうちで、 布教に成功したと言えるものは存在しません。 キリスト教の既存の教派に関しては、 「信者になってもよい」と思う日本人はきわめて少数なのです。

キリスト教に対して親しみを感じている日本人というのは、 けっして少なくありません。 このことは、 日本においてクリスマスというキリスト教の行事が 十二月の風物詩として完全に定着している ということからも明らかです。 しかし、多くの日本人にとって、 キリスト教に対する親しみというのは、 行事に対する親しみであって、教義に対する親しみではありません。 多くの日本人にキリスト教の信者になってもらうためには、 行事に対して親しみを感じてもらうだけではなくて、 教義に対しても親しみを感じてもらうことが不可欠です。 しかし、キリスト教の既存の教派が布教している教義に対しては、 多くの日本人が、 親しみよりもむしろ違和感を感じるのではないかと思われます。

キリスト教の教義に対して日本人に親しみを感じてもらうためには、 それに対してアレンジを加えることが必要です。 日本型キリスト教は、 キリスト教のオリジナルな教義に対して、 そのようなアレンジを加えた教派です。 おそらく、 キリスト教を信じる日本人を増やすためには、 キリスト教の既存の教派を布教するよりも、 日本型キリスト教を布教するほうが、 はるかに大きな効果が得られるのではないかと思われます。

問八・三 あなたはいったい、どういう理由で、 キリスト教を信じる日本人を増やしたいと思ってるんですか。

私がキリスト教を信じる日本人を増やしたいと思っている理由は、 日本における宗教多様性を増大させたいと思っているからです。

日本における宗教の人口比率には、大きな特質があります。 それは、多くの人々が神道や仏教を信仰しているのに対して、 アブラハム宗教(ユダヤ教、キリスト教、 イスラーム)を信仰している人々はきわめて少数だということです。 このような特質から考えれば、 アブラハム宗教を信仰する日本人を増やすことは、 日本における宗教多様性を増大させる上で最も効果的な手段だ、 ということは明らかです。

問八・四 宗教多様性が増大すると、何かいいことがあるんですか。

宗教多様性が増大すると、 人間の社会に存在する宗教間摩擦が軽減されるという、 望ましい効果が得られます。

宗教間摩擦は、 自分が信じている宗教とは異なる宗教を信じている人間に対して 不寛容の精神を持つ人間によって発生する現象です。 したがって、そのような不寛容の精神を持つ人間を減少させ、 寛容の精神を持つ人間を増加させれば、 宗教間摩擦は軽減されることになります。

では、どうすれば人間は、 自分とは異なる宗教を信じている人間に対する 寛容の精神を持つことができるようになるのでしょうか。 そのために必要なことは、 「自分が信じている宗教は、無数に存在する宗教の一つであり、 いかなる優越性も持たない」という認識を持つことです。

ある人間の個人的宗教多様性が高ければ高いほど、その人は、 「自分が信じている宗教は、無数に存在する宗教の一つであり、 いかなる優越性も持たない」 という認識をより強く持つことになります。 また、ある地域の地域的宗教多様性が高ければ高いほど、 その地域に住んでいる人間は、 そのような認識をより強く持つことになります。

問八・五 あなたはどうして、 ユダヤ教やイスラームの新しい教派ではなくて、 キリスト教の新しい教派を開発したんですか。

それは、アブラハム宗教(ユダヤ教、キリスト教、 イスラーム)のうちで、 日本人を最も改宗させやすいのが キリスト教であろうと思われるからです。

改宗させやすいと思われる理由は、キリスト教には、 マリアや聖人や聖遺物に対する崇敬という、 厳格な一神教から逸脱した要素を含んでいるからです。 キリスト教に比べると、 ユダヤ教やイスラームは一神教性が厳格ですので、 日本人をそれらに改宗させることは かなり困難であろうと予想されます。

問八・六 キリスト教の教義について疑問があるんですが、 この経典は私の疑問に何も答えていません。 私の疑問は、どうすれば解決できますか。

日本型キリスト教の信者は、 キリスト教の教義について疑問があるにもかかわらず、 その答がこの経典に書かれていない場合、 その疑問に対して自分自身で自由に解答を与えることができます。

日本型キリスト教の信者は、 この経典に書かれていない教義を、 自分自身の日本型キリスト教に自由に追加することができます。 ですから、ある人が信じている日本型キリスト教と、 別の人が信じている日本型キリスト教とは、 共通する部分はあるとしても、 その細部まで同じであるとは限らないということになります。 日本型キリスト教においては、 このような信者の間での教義の不一致は、 大いに望ましいものだと考えられています。 なぜなら、信者の間での教義の不一致によって、 教派の内部に多様性が創出されるからです。

たとえば、この経典は、 発出をめぐる位格間の関係について、いかなる主張もしていません。 キリスト教においては、この関係に関して、 「フィリオクェ問題」と呼ばれる大きな問題が存在しています。 「フィリオクェ問題」というのは、 「聖霊は父のみから発出するのか、 それとも子からも発出するのか」 ということをめぐる問題のことです。 正教は父のみから発出すると主張し、 ローマ・カトリックは子からも発出すると主張しています。 発出をめぐる位格間の関係について、 この経典がいかなる主張もしていないということは、 日本型キリスト教の信者はそれについての教義を 自分自身の日本型キリスト教に自由に追加することができる、 ということを意味しています。 つまり、「父のみから」と信じてもいいし、 「子からも」と信じてもいいし、 そのどちらでもない別のことを信じてもいい、 ということです。

[第九節]その他の質問

問九・一 私は日本型キリスト教の信者なんですが、 私が死んだときの葬儀は、臨済宗の様式で挙げてもらいたいんです。 そういうことって、可能ですか。

はい、可能です。 日本型キリスト教の信者が亡くなった場合、 その葬儀の様式は、どんなものでもかまいません。 キリスト教の様式で 葬儀を挙げなければならないということはありません。 仏教の様式でも、神道の様式でも、まったく問題はありません。

ただし、日本型キリスト教の信者に限りませんが、 自分の葬儀を自分が望む様式で挙げてもらうためには、生前から、 自分の遺族となる人々に、 その意思を言葉で明確に伝えておく必要があります。

問九・二 私は性的少数者なんですが、 日本型キリスト教の信者は私を差別しますか。

いいえ、日本型キリスト教の信者は、 いかなる性的少数者も差別しません。

聖書の中には、性的少数者に対する差別的な記述が存在します。 しかし、問六・三で説明したように、日本型キリスト教では、 聖書に書かれていることはそのすべてが正しいとは考えません。 性的少数者に対する差別的な記述は、 それが書かれた地域と時代の人権意識を反映したものであって、 それは正しい人権意識ではありません。

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