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目次

第一版への序文

おそらく、 「宗教の作り方」というこの経典を読んでいるみなさんの大多数は、 「宗教を自分の手で作りたいけれども、 作り方が分からない」という人々でしょう。 この経典は、その題名が示しているとおり、 そのような人々のために、 宗教というものはどのようにすれば作ることができるのか、 ということについて解説することを目的とするものです。

みなさんの中には、「宗教を作ることができる人っていうのは、 神から啓示を受けたとか、特殊な修行をしたというような、 普通の人とは違う特別な人だけだ」 と思っている人がいるかもしれません。 しかし、私はそのような人に、「そんなことはありません。 宗教というのは誰にでも作ることができるものです」 と言いたいと思います。 この主張、つまり、 教祖になろうと思ってなれない人間は 一人もいないのだという主張を、 私は、「万人教祖主義」(omnifundatoresism)と呼んでいます。

ところで、みなさんは、 どのような目的で宗教を作ろうと思っているのでしょうか。 おそらく、宗教を作る目的は人によってさまざまでしょう。 既存の宗教に対して感じている不満を解消するため という人もいるでしょうし、 宗教によって人々を行動に駆り立てて 何らかの社会的な変革を達成するためという人もいるでしょうし、 教祖として後世に名前を残すためという人もいるでしょうし、 純粋なビジネスとして経済的な利益を得るため という人もいるでしょう。

みなさんの中には、 宗教を作る目的をすでに持っている人ばかりではなく、 宗教を作る必要性をまったく感じていない人もいるでしょう。 宗教は誰にでも作ることができるとしても、 誰もが宗教を作らなければならないわけではありません。 宗教を作る必要性を感じていない人は、 宗教を作らなくてもかまわないわけです。 しかし私は、宗教を作る必要性を感じていない人に、 一つの提案をしたいと思います。 それは、 「鑑賞の対象としての宗教を作ってみませんか」という提案です。

おそらくほとんどの人々は、いかなる宗教も、 それを信仰している人にとっては価値があるけれども、 それを信仰していない人にとっては何の価値もないものだ、 と考えています。 しかし、宗教は、それを信仰している人だけではなく、 それを信仰していない人間にとっても大きな価値がある、 と私は考えています。 信仰していない人間にとっての宗教の価値というのは、 芸術としての価値です。

芸術というのは、 人間が知力や感性を発揮させることによって創造されるものです。 この点は、宗教も同じです。 だとすると、 宗教というのは芸術のジャンルの一つだと 考えることができるのではないでしょうか。 そして、 絵画や彫刻や音楽や文学などを鑑賞することに 意義があるのと同じように、 宗教を鑑賞することにも意義があるのではないでしょうか。 そしてさらに、 絵を描いたり作曲をしたり小説を書いたりすることによって 得られる達成感と同じような達成感が、 宗教を作ることによっても得られるのではないでしょうか。

私は、 人類が作ることのできる宗教には無限の可能性があると 考えています。 そして、 未来において出現するであろう数々の新奇な宗教と出会うことに、 大きな期待を寄せています。 宗教の未知の荒野を開拓しようとする教祖のみなさんが、 このささやかな経典を道案内にしてくださるとすれば、 著者としてこれにまさる喜びはありません。

二〇一三年十二月
大黒学

[第一節]宗教の定義

[第一項]この経典について

おそらく多くの人は、宗教を作りたいと思っても、 どうやって作ればいいのかということが 分からないのではないでしょうか。 その最大の理由は、 宗教とはどのようなものなのかということについて 漠然としたイメージしか持っていないからです。 宗教とはどのようなものかということをしっかり把握すれば、 宗教の作り方は自然に理解できるようになります。 「宗教の作り方」と題するこの経典は、 宗教とはどのようなものなのかということについて みなさんに把握してもらう、 ということを目標として書かれています。

宗教とはどのようなものなのかということを把握するために まず必要なことは、 「宗教」という言葉の定義を理解すること、すなわち、 宗教の本質は何かということについて理解することです。 つまり、宗教と宗教ではないものとは区別するポイントは何なのか、 ということを理解する必要があるのです。 そこで、この経典の第一節では、 「宗教」という言葉の定義について説明したいと思います。

しかし、「宗教」という言葉の定義を理解することは、 宗教とはどのようなものなのかということを把握するための 出発点にすぎません。 宗教という概念の周囲には、 宗教と密接に関連するさまざまな概念があります。 宗教とはどのようなものなのかということを把握するためには、 宗教を取り巻くさまざまな概念についても理解する必要があります。 そこで、この経典の第二節以降では、 宗教を取り巻くさまざまな概念について説明したいと思います。

[第二項]命題

疑問文や命令文ではない普通の文は、「平叙文」と呼ばれます。 たとえば、次の文は平叙文の例です。

平叙文が意味している内容は、「命題」と呼ばれます。 命題には、正しいことを言っているものと、 そうでないものとがあります。 命題が正しいことを言っているとき、 その命題は「真」であると言われます。 そして、正しくないことを言っているとき、 その命題は「偽」であると言われます。

[第三項]命題の分類

命題は、 それが真なのか偽なのかを確かめるための方法によって、 三種類に分類することができます。

一つ目の種類は、言葉の意味を分析することによって、 真なのか偽なのかということを確かめることのできる命題です。 たとえば、「直角三角形は三角形である」という命題は、 「直角三角形」という言葉の意味を分析することによって、 真だということが分かりますので、 この種類の命題だということになります。

二つ目の種類は、何らかの経験的な手段によって、 真なのか偽なのかということを確かめることのできる命題です。 たとえば、「和美は右目の下にほくろがある」という命題は、 本人を観察するという経験的な手段によって、 真なのか偽なのかということを確かめることができますので、 この種類の命題だということになります。

三つ目の種類は、言葉の意味を分析することによっても、 経験的な手段によっても、 真なのか偽なのかということを確かめることができない命題です。 たとえば、 「人間は死んだのちに星になる」という命題が 真なのか偽なのかということは、 言葉の意味を分析しても確かめることができませんし、 経験的な手段によっても確かめることができませんので、 この種類の命題だということになります。

[第四項]超自然的な命題

先ほどの命題の分類で、三つ目の種類の命題、つまり、 言葉の意味を分析することによっても、経験的な手段によっても、 真なのか偽なのかということを確かめることができない命題は、 「超自然的な命題」と呼ばれます。 「超自然的な」という言葉は、 「経験できる範囲を超えている」という意味です。

「宗教」という言葉は、 「矛盾のない超自然的な命題の集合」と定義することができます。 つまり、 たとえば「人間は死んだのちに星になる」という命題のような 超自然的な命題で、 互いに矛盾しないものを 集めることによってできる集合が宗教だということです。

宗教を構成する命題は、一個だけでもかまいません。 ですから、 「人間は死んだのちに星になる」 という一個の命題だけから構成される集合も、 「宗教」と呼ぶことができます。

宗教を構成している個々の命題は、「教義」と呼ばれます。

[第五項]宗教の定義に対する予想される反論

私が先ほど述べた宗教の定義に対しては、反論が予想されます。 それは、 「儀礼や戒律はあるけれども教義のない宗教もある」 という反論です。 このような反論に対しては、次のように答えたいと思います。

確かに、教義が明文化されていない宗教というのは存在します。 そもそも、人類が宗教を持つようになったのは、 人類が言葉を使い始めるよりも以前のことですから、 明文化された教義を持つ宗教が まったく存在しない時代もあったわけです。 しかし、教義が明文化されていないということと、 教義が存在しないということは、同じではありません。

宗教的な儀礼や、宗教的な戒律は、 何らかの超自然的な命題を前提としています。 たとえば、雨乞いの儀礼を持つ宗教は、 「この儀礼は雨を降らせる効果を持つ」 という超自然的な命題を前提としています。 また、特定の動物の肉を食べてはならないというような戒律も、 そうしなければ神々の怒りを招くというような超自然的な命題を 前提としています。 ですから、何らかの儀礼や戒律を持っている宗教は、 かならず教義も持っているということになります。 教義がないように見える宗教は、 ただ単に教義が明文化されていないだけなのです。

[第六項]教義の矛盾

私による宗教の定義では、 矛盾を含んだ教義の集合は「宗教」と呼ぶことができません。 たとえば、次の二つの教義は、互いに矛盾しています。

ですから、これらの教義の両方を含んでいる集合は、 「宗教」と呼ぶことができないということになります。

数個の教義から構成される単純な宗教を作る場合は、 それらの教義の間に矛盾がないことを確認することは、 それほど困難ではありません。 しかし、数十個、 あるいは数百個もの教義から構成される複雑な宗教を作る場合は、 それらの教義の間に矛盾がないことを確認することは、 かなり困難です。 教祖自身によるチェックだけでは、 矛盾を見落す危険性が高くなります。 ですから、複雑な宗教を作る場合には、教祖だけではなく、 できるだけ多くの人々がそれをチェックすることが 望ましいということになります。

[第二節]超自然的な存在者

[第一項]超自然的な存在者とは何か

この節では、 「超自然的な存在者」というものについて説明したいと思います。

「存在者」というのは、文字どおり、 「存在するもの」という意味の言葉です。 机や時計やスプーンのような物体も、 雨やオーロラや錯覚のような現象も、 喜びや悲しみや寂しさのような感情も、 整数や直線や集合のような数学の対象も、 存在するすべてのものは「存在者」と呼ぶことができます。

「超自然的な」という言葉の意味は、第一節で説明したように、 「経験できる範囲を超えている」ということです。 したがって、「超自然的な存在者」というのは、 「経験できる範囲を超えたところに存在するもの」 という意味になります。

超自然的な命題は、 何らかの超自然的な存在者に言及しています。 たとえば、「神は存在する」という命題は、 神という超自然的な存在者に言及しています。

超自然的な存在者にはさまざまな形態のものがありますが、 宗教について考える上で重要な形態が二つあります。 一つは「霊魂」などと呼ばれるもので、 もう一つは「異界」などと呼ばれるものです。

[第二項]霊魂

「霊魂」というのは、超自然的な存在者のうちで、 精神活動を持つものの総称です。 「霊」と呼ばれたり 「魂(たましい)」と呼ばれたりすることもあります。 神、仏、妖怪、妖精、鬼なども、 精神活動を持つ超自然的な存在者ですので、 霊魂の一種ということになります。

人間は超自然的な存在者ではありませんが、多くの宗教は、 人間には霊魂が宿っていて、人間に宿っている霊魂は、 人間が死亡したのちも存在し続けるという教義を持っています。 また、 人間以外の生物や無生物にも 霊魂が宿っているという教義を持つ宗教もあって、 そのような宗教は「アニミズム」と呼ばれます。

ポリネシアやメラネシアの宗教においては、 優れた人間や道具には 「マナ」と呼ばれる力が宿っていると考えられています。 マナも超自然的な存在者ですが、精神活動は持っていませんので、 霊魂の一種ではありません。 生物や無生物にマナのような超自然的な力が宿っている という教義を持つ宗教は、 「アニマティズム」と呼ばれます。

多くの宗教においては、神、仏、そして死後の人間の霊魂など、 さまざまな霊魂が主要なテーマとなっています。 ですから、 霊魂をまったく扱わない 特殊な宗教を作ろうとしているのではない限り、 宗教を作る上で、 霊魂に関する教義を作ることは避けることができません。 そこで、この経典の第八節で、霊魂の問題について、 もう少し詳しく説明することにしたいと思います。

[第三項]異界

「異界」というのは、超自然的な存在者のうちで、 空間的な広がりであるものの総称です。 「他界」と呼ばれることもあります。

宗教において語られる異界は、多くの場合、黄泉の国、 常世の国、浄土、天国、地獄など、 死亡した人間の霊魂が行くことになる世界ですが、 そのような世界だけが異界ではありません。 たとえば、仏教の天界や神道の高天原のような、 神々が住む世界も異界の一種です。 また、現実の世界の至るところに接点を持つと考えられている、 妖怪が住む世界というのも、やはり異界の一種です。

何らかの霊魂を扱う宗教を作る場合には、 その霊魂はどのような異界に存在しているのか ということに関しても、 教義を作ることが望まれます(もちろん、 「その霊魂は現実の世界に存在している」 という教義を作ることもできますし、 「その霊魂は抽象的な存在者であり、 存在する場所というものは持たない」 という教義を作ることもできるのですが)。

[第四項]超自然的な関係

宗教が扱う超自然的な存在者は、 霊魂や異界のような具体的なものばかりではありません。 たとえば、 関係という抽象的な存在者が扱われることもあります。

第一節第四項で、超自然的な命題の例として、 「人間は死んだのちに星になる」という命題を紹介しましたが、 この命題が言及している超自然的な存在者というのは、 いったい何なのでしょうか。 この命題が言及している、人間という生物、死ぬという現象、 星という物体は、いずれも超自然的な存在者ではありません。 この命題の場合は、人間と星との間の同一性という関係が、 超自然的な存在者なのです。

仏教には、「因果応報」と呼ばれる教義があります。 これは、「善行に対しては良い報いがあり、 悪業に対しては悪い報いがある」という教義です。 この教義が言及している超自然的な存在者は、 人間による行為の善悪と、 その人間に訪れる運命の良し悪しとの間の関係です。

[第三節]宗教の分類樹

[第一項]個物と概念

存在者は、個物と概念に分類することができます。

個物というのは、個別的に存在する存在者のことです。 たとえば、ナポレオンという人間、フランスという国、 ワーテルローの戦いという出来事などは、個物の例です。 個物に与えられた名前は、「固有名」と呼ばれます。

それに対して、概念というのは、 一般的に存在する存在者のことです。 人間、国、出来事などは、概念の例です。 概念に与えられた名前は、「一般名」と呼ばれます。

[第二項]分類樹

概念は、性質の集合だと考えることができます。 たとえば、三角形という概念は、「図形である」という性質と、 「同一の直線上にない三個の点を結ぶ線分で構成されている」 という性質を要素とする集合です。

概念は、それが持っている性質が少ないほど一般的になって、 多いほど特殊になります。 AとBという二つの概念があって、それらの間に、 Aに対して性質を追加したものがBだという関係があるとき、 AはBの「上位概念」と呼ばれ、 BはAの「下位概念」と呼ばれます。 たとえば、直角三角形という概念は、三角形という概念に対して、 「内角の一つが直角である」という性質を追加したものですので、 三角形は直角三角形の上位概念で、 直角三角形は三角形の下位概念です。

概念に対して、 特定の性質に着目した複数の下位概念を作ることを、 概念をそれらの下位概念に「分類する」と言います。 たとえば、三角形という概念は、 辺が作る角度に着目することによって、 鋭角三角形、直角三角形、 鈍角三角形という三つの下位概念に分類することができます。 分類という作業は、 概念から構成される木の形をした構造を作ります。 つまり、上位概念を分岐点として、 下位概念へ向かういくつかの枝を作るということです。 分類によってできる概念の木は、「分類樹」と呼ばれます。

いくつかの概念が与えられたとき、 それらの概念を分類することによって作ることのできる分類樹は、 一つだけとは限りません。 なぜなら、概念は、 どのような性質に着目するかということによって、 さまざまな異なる方法で分類することができるからです。 たとえば、三角形という概念は、 辺が作る角度に着目することによって、鋭角三角形、直角三角形、 鈍角三角形に分類することもできますし、 二辺が等しいかどうかに着目することによって、 二等辺三角形と不等辺三角形に分類することもできます。

[第三項]系統樹

地球上には、さまざまな生物が生息しています。 地球上の生物の多様性は、突如として出現したわけではありません。 長期間にわたる進化の過程の中で、 一つの種から複数の種への分岐が繰り返されることによって、 少しずつ多様性が増大してきたのです。 このような種の分岐の過程は、 木の形をした構造を持っています。

人類は、さまざまな言語を持っています。 生物と同じように、言語の多様性も、 突如として出現したわけではありません。 人類が最初に言語を使い始めたとき、 多様性はほとんどなかったはずです。 人口が増大して、居住する地域が分散するにつれて、 一つの言語から複数の言語への分岐が繰り返され、その結果として、 現在のような言語の多様性が形成されたのです。

生物や言語などに見られる、 分岐によって多様性が形成される過程は、 木の形をした構造を持っています。 つまり、先祖を分岐点として、 子孫へ向かういくつかの枝が作られてきたということです。 そのような、多様性の形成過程の木は、「系統樹」と呼ばれます。

生物や言語は、系統樹を反映した分類樹を作ることが可能です。 つまり、 共通の先祖を持つかどうかという性質に着目することによって、 概念を分類するということです。 しかし、系統樹を反映した分類樹は、 けっして系統樹と同じものではありません。 系統樹と分類樹とは、性質が異なるものだからです。 枝の分岐点と分岐点との間に、 先祖と子孫という関係があるのが系統樹で、 上位概念と下位概念という関係があるのが分類樹です。

[第四項]宗教は概念である

「宗教」と呼ばれるものが概念だということは、 おそらく誰もが認めることだろうと思います。 それでは、「キリスト教」と呼ばれるもの、 「イスラーム」と呼ばれるもの、 「仏教」と呼ばれるものはどうでしょうか。 それらは概念でしょうか。 それとも個物でしょうか。

このように尋ねると、おそらく、 「それらは個物である」と答える人が多いのではないでしょうか。 たしかに、キリスト教やイスラームや仏教は、 ナポレオンやフランスやワーテルローの戦いと同じように、 具体的なイメージを伴っています。

しかし、具体的というのは、 個別的ということではありません。 このことは、キリスト教とプロテスタントとの間の関係は何か、 ということを考えてみると分かります。 この関係は、イスラームとシーア派との間にもありますし、 仏教と大乗仏教との間にもあります。 それらの間にあるのは、 個物と個物との間には存在し得ない関係です。 それは、一般的なものと特殊なものという関係、 つまり、上位概念と下位概念という関係です。

このように考えてみると、「キリスト教」と呼ばれるもの、 「イスラーム」と呼ばれるもの、「仏教」と呼ばれるものは、 いずれも概念だと考えるのが適切だ、ということが分かります。 つまり、「○○は宗教である」と言われるあらゆる○○は、 宗教という一般的な概念を特殊化した概念なのです。

ちなみに、「プロテスタント」と呼ばれるもの、 「シーア派」と呼ばれるもの、「大乗仏教」と呼ばれるものも、 やはり概念です。 プロテスタントという概念は、 バプティストや長老教会やメソディストや会衆派などの上位概念で、 シーア派という概念は、 十二イマーム派やザイド派やイスマーイール派などの上位概念で、 大乗仏教という概念は、 天台宗や華厳宗や浄土宗や日蓮宗などの上位概念です。

ついでに言えば、日本語や英語や中国語などの言語も、 あまりにも具体的なイメージを伴っているために、 個物だと誤解されていますが、実は個物ではなく概念です。 なぜなら、それらもまた、 上位概念や下位概念を持っているからです。 たとえば、 膠着語という概念は日本語や朝鮮語やトルコ語の上位概念で、 関西弁や東北弁などの方言は日本語の下位概念です。

[第五項]「宗教」と呼ばれる宗教の教義

宗教というのは概念ですから、 あらゆる宗教から構成される分類樹というものを 作ることができます。 その分類樹の根には、 「宗教」と呼ばれる概念が位置づけられます。 つまり、「宗教」と呼ばれる概念は、 あらゆる宗教の中で最も一般的な宗教なのです。

第一節第四項で述べたように、宗教というのは、 矛盾のない超自然的な命題の集合のことです。 宗教を構成している個々の命題は、「教義」と呼ばれます。 したがって、「宗教」と呼ばれる最も一般的な宗教も、 教義を持っていることになります。 それは、最高度に一般化された教義、すなわち、 「超自然的な存在者が存在する」という教義です。

[第六項]宗教の三つの作り方

宗教の作り方には、次の三つのものがあります。

寄せ集めによる作り方というのは、 さまざまな宗教から教義を部分的に取り出して、 それらの教義から構成される宗教を作る、という作り方のことです。 この方法によって作られた宗教の例としては、 マニ教を挙げることができます。 マニ教は、ゾロアスター教、ミフル神信仰、キリスト教、 グノーシス主義などから部分的に取り出された教義によって 構成されている宗教です。

系統樹的な作り方というのは、 具体的な宗教に含まれている教義のいくつかに対して異を唱える、 という作り方のことです。 言い換えれば、主流派とは異なる分派を立てるという作り方です。 伝統的な宗教の多くは、この方法で作られています。 たとえば、キリスト教とイスラームは、 ユダヤ教から分岐した分派ですし、 仏教はバラモン教から分岐した分派です。

分類樹的な作り方というのは、宗教を特殊化する、 という作り方のことです。 つまり、何らかの既存の宗教に対して教義を追加する、 という作り方です。 たとえば、観音信仰という宗教に対して、 「ナザレのイエスは観音菩薩の化身である」 というようなオリジナルな教義を追加することによって、 観音信仰を特殊化した新しい宗教を作ることができます。

[第七項]独創的な宗教

もしも、 「これまで誰も作らなかったような独創的な宗教を作りたい」 と思った場合、 先ほど紹介した宗教の三つの作り方のうちで、 どの作り方が最も適しているでしょうか。

独創的な宗教を作りたいと思った場合、 それに最も不向きな作り方は、系統樹的な作り方でしょう。 この作り方によって作られた宗教は、必然的に、 大部分の教義が分岐元の宗教と共通で、 異を唱えた教義に関してのみ相違がある、 というものになります。 そのような宗教の独創性は、皆無とまでは言えないものの、 制限されたものになります。

寄せ集めによる作り方は、系統樹的な作り方に比べると、 かなり独創的な宗教を作ることが可能です。 しかし、この作り方で作られた宗教を構成している個々の教義は、 他の宗教から取り出されたものですから、 それら自体に独創性はありません。 つまり、この作り方で作られた宗教の独創性は、 あくまで編集的な独創性なのです。 したがって、寄せ集めによる作り方で作られた宗教の独創性も、 そのような意味で限定されたものになります。

結局のところ、三つの作り方のうちで、 独創的な宗教を最も作りやすいのは、 分類樹的な作り方だということになります。 既存の宗教の分類樹を作ってみると、 至る所に空白地帯があるということが分かります。 そのような空白地帯は、 独創的な宗教を作るためのヒントとなります。

[第八項]系統樹的な宗教の作り方の注意点

すでに既存の何らかの宗教を信仰している人が、 それに含まれている教義に対して不満を感じて、 新しい宗教を作ろうと思った場合は、 おそらく系統樹的な作り方以外に選択の余地はないでしょう。

系統樹的な作り方で宗教を作る場合には、一つ、 注意しなければならないことがあります。 それは、この作り方で宗教を作った場合、 分岐元となった宗教との間に軋轢が生じる可能性がある、 ということです。 歴史を振り返ってみても、 宗教と宗教との間に発生した争いごとの多くは、 系統樹の分岐がその原因となっています。 たとえば、カトリックと、 そこから分岐したカタリ派という宗派との間には、 激しい争いが発生しました。 ですから、系統樹的な作り方で宗教を作る場合には、 分岐元の宗教との関係を良好に保つ努力が必要となります。

[第四節]信仰

[第一項]教義の真偽

この節では、信仰というものについて説明したいと思いますが、 本題に入る前に、そのための準備として、 教義の真偽という話をしたいと思います。

宗教は、「教義」と呼ばれる命題から構成されています。 命題には、真であるものと偽であるものがあるわけですが、 教義というのは真なのでしょうか、それとも偽なのでしょうか。

命題の真偽という点に関して言えば、宗教というのは、 数学の公理系に似ています。 公理系を構成している命題は、そのすべてが真です。 ただし、それはあくまで、 それぞれの命題が所属している公理系の中だけの話です。 ユークリッド幾何学の中には、 「一直線外の一点を通る、その直線と平行な直線は、存在し、 それは一本だけに限られる」という命題が含まれています。 それに対して、双曲的非ユークリッド幾何学の中には、 「一直線外の一点を通る、その直線と平行な直線は、 無数に存在する」という命題が含まれています。 また、楕円的非ユークリッド幾何学の中には、 「一直線外の一点を通る、その直線と平行な直線は、 一本も存在しない」という命題が含まれています。 これらの命題はすべて真ですが、だからと言って、 矛盾が発生することはありません。 なぜなら、これらの命題が真なのは、 それぞれの命題が所属している公理系の中だけのことだからです。

宗教も同じです。 いかなる教義も真なのです。 ただし、それはあくまで、 それぞれの教義が所属している宗教の中だけの話です。 Xという宗教の中に「AはBである」という教義が含まれていて、 Yという宗教の中に「AはBではない」という命題が 含まれていたとしても、 けっして矛盾ではありません。 Xの中では「AはBである」が真であり、 Yの中では「AはBではない」が真なのです。

第一節第四項で、私は、 宗教というのは矛盾のない超自然的な命題の集合のことで、 超自然的な命題というのは、言葉の意味を分析することによっても、 経験的な手段によっても、 真なのか偽なのかということを 確かめることができない命題のことだ、 と説明しました。 これは、 「すべての教義は真である」という話と矛盾するのではないか、 と思った人がいるかもしれません。 しかし、これは矛盾ではありません。 「真なのか偽なのかということを確かめることができない」 というのは、 「現実の世界において」という前提があるのです。 いかなる教義も、現実の世界において真なのか偽なのか、 ということを確かめることはできません。 しかし、宗教が言及しているのは、現実とは異なる世界なのです。 そして、その世界においては、 その宗教を構成しているすべての教義が真なのです。

[第二項]信仰とは何か

信仰は、宗教という概念と密接な関係のある概念です。 「信仰」という言葉は、多くの場合、 「○○は□□を信仰している」というように、 他動詞として使われます。 主語の○○は人間、目的語の□□は宗教です。 このことから、信仰というのは人間による何らかの行為で、 その対象は宗教である、ということが分かります。

「信じる」という言葉が、 「信仰する」と同じ意味で使われることもあります。 つまり、○○が人間、□□が宗教ならば、 「○○は□□を信じている」という文は、 「○○は□□を信仰している」という文と同じ意味です。 ただし、「信じる」は、「信仰する」よりも意味の広い言葉です。 「○○は□□を信じている」という文の□□は、 必ずしも宗教とは限りません。 人間の場合もありますし、誰かの発言の場合もあります。

宗教を「信仰する」というのは、 その宗教を構成している教義が、 現実の世界において真であると誤認することです。

ここで私が「誤認」という言葉を使ったことについて、 それは不当だと思った人がいるかもしれません。 しかし、これはけっして不当ではありません。 いかなる宗教であろうと、それを構成している教義については、 「現実の世界において真なのか偽なのかは不明である」 というのが正しい認識です。 真であるという認識も、偽であるという認識も、 ともに誤認なのです。

[第三項]共存

いかなる宗教も、 人類にとって価値のある文化遺産だと私は考えています。 ですから、これから先も、過去に作られた宗教が未来に継承され、 そして新しい宗教が次々に作られていくことを私は願っています。

しかし、宗教が、 地球上に存在しているさまざまな人間が共存していく上での 障害となっている、 ということも事実です。 人類の歴史は、十字軍やユグノー戦争や北アイルランド紛争など、 宗教を原因とする多くの争いごとに彩られています。 そのような争いごとは、 どうすれば消滅させることができるのでしょうか。 原因となっている宗教を消滅させればいい、 というのがストレートな答えですが、 それは現実的には不可能ですし、宗教の消滅は、 人類の文化にとって大きな損失となるでしょう。

宗教それ自体と、宗教に対する信仰とは、別のものです。 何らかの宗教を信仰している人間は、 自分とは異なる宗教を信仰している人間に対して 反感を持っているかもしれません。 そのような反感を持っている人間は、争いごとの原因となります。 宗教を原因とする争いごとというのは、もっと正確に言えば、 人間による宗教の信仰を原因とする争いごとです。 したがって、宗教を消滅させなくても、 宗教を原因とする争いごとを消滅させることは可能です。 信仰を消滅させればいいのです。 宗教が存在し続けたとしても、それを信仰する人間がいなくなれば、 それを原因とする争いごともなくなるはずです。 さて、それでは、 どうすれば人間から信仰を消滅させることができるのでしょうか。

[第四項]万人教祖主義

「第一版への序文」でも言及したように、私は、 万人教祖主義というものを主張しています。 「万人教祖主義」(omnifundatoresism)というのは、 「すべての人間は教祖となることが可能である」 という命題のことです。 私は、「万人教祖主義には、 自分とは異なる宗教を信仰している人間に対する反感を 消滅させる効能がある」と考えています。

宗教というのは、人間が作るものです。 宗教を作った人間は、その宗教の「教祖」と呼ばれます。 仏教やキリスト教やイスラームなどでは教祖は特定の個人ですが、 神道やヒンドゥー教や道教などでは、 教祖は特定の個人ではありません。 しかし、いずれの場合も、 それらの宗教を作った人間が存在するということは、 間違いありません。

それでは、教祖というのは、どのような人間なのでしょうか。 超自然的な存在者を認識することのできる、 特殊な人間なのでしょうか。 万人教祖主義は、そのような考え方を否定します。 つまり、 超自然的な存在者を認識することができる人間は存在しない、 ということです。 教祖は特殊な人間ではないのです。 それでは、教祖たちはどのようにして宗教を作るのでしょうか。 彼らが作る宗教の源泉は、彼らの想像力です。 教祖は、 自らの想像力を駆使することによって宗教を作るのです。 そして、想像力は、あらゆる人間に与えられています。 つまり、誰もが教祖になることができるのです。

教祖は、矛盾さえ発生しなければ、 自分が作っている宗教の中に、 「AはBである」という命題を入れることもできますし、 「AはBではない」という命題を入れることもできます。 どちらを選択したとしても、その命題は、 その宗教の中では真になります。 現実の世界において、その命題が真であるか偽であるかというのは、 教祖にとって重要な問題ではありません。 ですから、教祖自身は、 自分が作った宗教とは異なる宗教を信仰している人間に対して、 いかなる反感も持たないでしょう。 反感を持つのは、 自分が信じている宗教の教祖は特殊な人間なのだと思い込んだ、 教祖以外の人々です。

万人教祖主義に同意する人間たちは、 たとえその人が教祖ではなくても、 自分とは異なる宗教を信仰している人間に対する反感を 持たないでしょう。 なぜなら、彼らは、 いかなる宗教も人間の想像力から生まれてきたものだということ、 すなわち、 宗教というのはフィクションだということを知っているからです。 したがって、万人教祖主義が人類全体の常識になったときには、 自分とは異なる宗教を信仰している人間に対して反感を持つ人は、 著しく減少するでしょう。 そして、その結果として人類は、 宗教を原因とする争いごとから解放されることになるでしょう。

[第五項]多宗教教

「多宗教教」(polyreligionism)という宗教があります。 これは私が作った宗教で、 万人教祖主義を教義として含んでいます。

もしかすると、 「万人教祖主義を教義として含んでいる」と聞いて、 違和感を感じた方がいらっしゃるかもしれません。 確かに、万人教祖主義は、 何らかの超自然的な存在者についての命題ではなく、 宗教に対するある種の態度の表明と言うべきものです。 したがって、言葉を厳密な意味で使うならば、 万人教祖主義を「教義」と呼ぶのは正しいことではありません。

しかし、万人教祖主義は、すべての人間に対して、 教義というのは思いのままに作り出すことができるものだ、 ということを教える命題、すなわち、 教義が生み出されるための前提となる命題です。 したがって、それは、 「メタ教義」という意味での教義だと考えることができます。

多宗教教は、万人教祖主義というメタ教義のほかにも、 いろいろと面白い教義を含んでいます。 多宗教教の教義は、 「妄想経」 という経典に書かれていますので、興味のある人は、 ぜひ読んでみてください。

[第五節]芸術

[第一項]宗教の位置づけ

宗教は人間の文化の一部分を占めるものです。 それでは、人間の文化の全体の中で、宗教は、 どのような場所に位置づけられているのでしょうか。 この節では、まず、 これまでの時代において宗教は文化の中のどのような場所に 位置づけられていたのかということについて説明します。 そしてそののち、 これから先はどのような場所に宗教を位置づけるのが適切なのか ということについて述べたいと思います。

[第二項]政治と科学と倫理

古代においては、宗教というのは政治と不可分のものでした。 すなわち、祭政一致というのがごく当り前の状態でした。 そして近世や近代に至っても、多くの国々において宗教は、 政治権力の正当性を保証したり、国民を鼓舞したり、 自国の優越性に根拠を与えたりするために利用されていました。 しかし、社会の近代化に伴って、政治と宗教との分離、 すなわち政教分離を国是とする国がしだいに増加していきました。 現在では、祭政一致を掲げる国は、 数えるほどしか存在していません。

また、古代においては、 世界や生物がどのようにして発生したのかということを説明したり、 世界の中で発生する さまざまな自然現象の原因を説明するという役割は、 宗教が担っていました。 多くの民族は彼らに固有の神話を語り伝えていて、 それらの神話の多くは、 神々がどのようにして世界や生物を作ったのかということを 説明しています。 さらに、雨や風や雷などの自然現象も、人間が病気になるのも、 何らかの超自然的な存在者が その原因になっていると考えられていました。 しかし、科学の発達に伴って、 世界の成り立ちや自然現象の原因を説明するという役割は、 しだいに宗教から科学へと移っていきました。 現在では、 世界の成り立ちや自然現象の原因に関して 科学が説明していることを受け入れないのは、 きわめて頑迷な原理主義者たちだけでしょう。

また、古代においては、 宗教と倫理とは不可分の関係にありました。 すなわち、人間が守るべき倫理は、 神々が定めた戒律に源泉を持つと考えられていたのです。 しかし現在では、多くの人々が、 倫理というのは神々の存在とは無関係なものであり、 社会的な合意を源泉とするものだと考えています。 そして、そのように考える人々は、 今後も増加するだろうと思われます。

[第三項]宗教は芸術のジャンルの一つである

前項で説明したように、かつて、政治と宗教、科学と宗教、 倫理と宗教との間には密接な関係がありました。 しかし、現在では、 それらの間の関係はしだいに失われつつあります。 ところが、それにもかかわらず、 人間の文化の中での宗教の位置づけは、ほとんど変化していません。 つまり、宗教の位置づけについては、 それを再考する必要が生じているにもかかわらず、 従来のままで放置されているのです。 政治と宗教、科学と宗教、 倫理と宗教の間に軋轢がしばしば発生するのは、それが原因です。 私たちは、 宗教をどのような位置に置くことが適切なのかということを、 改めて考えてみる必要があります。

私は、 宗教は「芸術のジャンルの一つ」という位置に置かれるのが適切だ、 と考えています。 前節の第四項で私は、 宗教の源泉は人間の想像力だという話をしました。 つまり、宗教を作るという活動は、絵を描いたり、 詩や小説を書いたり、作曲をしたりすることと同様に、 創作活動の一種だということです。 人間の創作活動によって生み出されたものは、通常、 「芸術」と呼ばれます。 したがって、「芸術のジャンルの一つ」というのは、 これから先の宗教の位置づけとして、 とてもふさわしいと言うことができます。

[第四項]宗教の鑑賞

前節の第三項で述べたように、私は、いかなる宗教も、 人類にとって価値のある文化遺産だと考えています。 これまでの時代においては、人類にとっての宗教の価値は、 主として信仰の対象としての価値でした。 しかし、前節で述べたとおり、宗教に対する信仰は、 消滅させる必要があります。 そして、宗教の価値は、信仰の対象としての価値から、 別の価値へ移行させる必要があります。 芸術のジャンルの一つという位置に宗教を置くことは、 宗教の価値の移行と連動しています。 すなわち、宗教の価値は、信仰の対象としての価値から、 芸術の作品としての価値、 言い換えれば鑑賞の対象としての価値へと 移行させることが必要です。

[第五項]素材の提供

人類はこれまで、 宗教が芸術のジャンルの一つだとは考えてきませんでした。 しかし、宗教と芸術との間には、遥かな昔から、 密接と言ってもよいほどの関係がありました。 それは、素材の提供という関係です。 遠い昔から、宗教は、 芸術に対してさまざまな素材を提供してきました。 古代ギリシアや古代ローマの彫刻の多くは神々の像ですし、 西洋の絵画の多くは聖書の場面を描いています。 また、信仰の対象として制作された仏像や曼荼羅は、 美術作品として鑑賞することも可能です。

素材を提供するという宗教と芸術との関係は、 これまでは宗教から芸術へという一方通行のものでした。 芸術から宗教へという逆方向の素材の提供は、 まったくなかったわけではありませんが(たとえば、 道教においては、 『西遊記』の主人公である孫悟空という架空のキャラクターが 斉天大聖という神として崇拝されています)、 あくまで例外的なものでした。 しかし、これからは違います。 宗教が芸術のジャンルの一つだということが 常識となった時代においては、 宗教から芸術へという方向だけではなく、 芸術から宗教へという逆の方向へも、 素材が活発に提供されることになるでしょう。

[第六節]経典

[第一項]経典とは何か

第一節第四項で説明したように、宗教というのは、 矛盾のない超自然的な命題の集合のことです。 そして、宗教を構成している個々の超自然的な命題は、 「教義」と呼ばれます。 したがって、宗教を作るというのは、さまざまな教義を、 それらが互いに矛盾しないように注意しながら、 一つ一つ作っていくということです。 その作業は、 複数の人間が互いに協力しながら進めることも可能ですし、 一人の人間だけで進めることも可能です。 複数の人間が互いに協力しながら宗教を作る場合、 自分たちが作りつつある宗教の現状がどうなっているか ということについて共通の認識を保っておくためには、 それを文書化することが必要になります。

一人の人間だけで宗教を作る場合、その作業は、 その人の頭の中だけで進めることが可能です。 そして、宗教が完成したのちも、 それを教祖自身の記憶の中だけに留めておくことが可能です。 自分が作った宗教は自分だけが知っていればよいという場合は、 それでもかまわないでしょう。 しかし、 自分が作った宗教を 自分以外の誰かにも知っていてほしいという場合には、 それらの人々にその宗教を伝達する必要があります。 そして、宗教を誰かに伝達するためには、 伝達したい相手に応じた形でそれを文書化する必要があります。

また、 自分が作った宗教は自分だけが知っていればよいという場合でも、 その宗教を文書化することには大きなメリットがあります。 なぜなら、人間の記憶というものは、 時間とともに失われたり変質したりするからです。 自分が作った宗教を文書化したものを手元に置いて、 それによって記憶をリフレッシュすれば、その宗教を、 いつまでも正確なままで 自分の記憶の中に留めておくことができます。

このように、宗教は、共同作業において共通認識を保つことや、 誰かにそれを伝達することや、 記憶をリフレッシュすることなどの目的で、 文書化されることが要請されます。 宗教を記述した文書は、「経典」と呼ばれます。 経典は、「聖典」と呼ばれたり、 「教典」と呼ばれたりすることもあります。 「聖典」と「経典」はほとんど同じ意味の言葉ですが、「教典」は、 「経典」よりも広い意味を持つ言葉ですので、 宗教ではないものを文書化したものが 「教典」と呼ばれることもあります。

[第二項]経典の作者

教祖が、自分が作った宗教を文書化しようと思った場合、 まず最初に考えなければならないのは、 それを誰が文書化するべきなのかということです。 なぜなら、宗教を文書化する人間は、 必ずしも教祖自身でなければならないというわけではないからです。 文書化は別の人間に任せて、教祖自身は宗教を作ることに専念する、 という分業化も可能です。 文章を書く能力の高い人に文書化を依頼することによって、 教祖自身が文書化する場合よりも、理解しやすい、 あるいは格調の高い経典を作成することができるかもしれません。

しかし、 宗教を作る人間とその宗教を文書化する人間とが異なる場合は、 その宗教が、 教祖が考えたとおりに正確に文書化されるかという点に関して、 多少の不安が残ります。 教祖の思考が正確に反映されることを重視するならば、 たとえ文章が稚拙であっても、教祖自身が文書化するほうが、 目的に適っています。

[第三項]経典のスタイル

どのような形式の文書で宗教を記述するかということ、 すなわち経典のスタイルには、 絶対にこうしなければならないという規範はありません。 原則的には、自由に好きなスタイルで文書化すればいいのです。 言行録のスタイル、書簡のスタイル、対話のスタイル、 質問とそれに対する回答というスタイル、詩のようなスタイル、 法律のようなスタイル、儀式の手順書のようなスタイルなど、 さまざまなスタイルの中から自由に選択することができます。

[第四項]曖昧さのない経典

先ほど、経典のスタイルには、 絶対にこうしなければならないという規範はないと言いましたが、 何のために宗教を文書化するのかという目的によっては、 その目的に適したスタイルで文書化することが必要になります。 特に、宗教を文書化する目的が、 共同作業において共通認識を保つこと、 または記憶をリフレッシュすることだという場合は、 曖昧さを可能な限り排除したスタイルで 経典を書くことが求められます。 宗教を誰かに伝達するという目的でそれを文書化する場合も、 宗教を可能な限り正確に伝達したいならば、やはり、 曖昧さを排除したスタイルが必要です。

曖昧さを排除したスタイルの経典は、 宗教を構成している教義を 明晰な文章で記述したものになるでしょう。 もしも、その中で使われる言葉が、 辞書に掲載されている意味とは異なる意味を持つ場合や、 曖昧さを避けるために 厳密な意味が与えられなければならない場合には、 その言葉の定義を書くことから始める必要があります。 このようなスタイルを持つ経典は、必然的に、 法律や数学書に似たものになるでしょう。

[第五項]物語のスタイルによる経典

経典というものは、 娯楽を目的として書かれるわけではありませんので、 読者にとって退屈なものになりがちです。 しかし、 可能な限り多くの人に経典を読んでもらいたいと思うならば、 読者を退屈させない工夫が必要です。 経典のスタイルのうちで、 読者を退屈させる危険性が最も少ないのは、物語のスタイルです。

古代ギリシアの宗教、ヒンドゥー教、神道のような、 民族的な宗教の多くは、「神話」と呼ばれる文献を持っていますが、 それらは物語のスタイルで書かれた経典の一種です。 神話は、神々の系譜を延々と記述したりするなど、 退屈な部分がないわけではありませんが、 基本的には物語としての面白さを十分に備えていますので、 現代人が書いた娯楽小説と比べても、 遜色はほとんどないと言っていいでしょう。

近代や現代に生まれた宗教の中にも、 物語のスタイルによる経典を持っているものがあります。 よく知られている例としては、「霊界物語」という経典があります。 これは、大本教という宗教を記述した経典の一つです。 大本教は、一八九二年に出口なおという人が創始した宗教で、 その教義は、 なおの娘婿となった出口王仁三郎という人によって 体系化されました。 「霊界物語」は、 王仁三郎が物語のスタイルで書いた大本教の経典で、 全八十一巻に及ぶ長大なものです。

物語のスタイルによる経典は、 読者を退屈させないという点では、 それ以外のスタイルよりも優れていますが、 解釈を読者に任せることになりますので、 すべての読者が同じように解釈するとは限らない、 という欠点もあります。 ですから、宗教を可能な限り正確に伝達したいという場合、 物語のスタイルは避けるのが無難です。

[第六項]経典作成マニュアル

第四節第四項で、私は、 万人教祖主義という命題を紹介しました。 万人教祖主義は、 「すべての人間は教祖となることが可能である」 ということを主張しているわけですが、 「すべての人間は経典を書くことが可能である」 ということまでは主張していません。 しかし、経典を書くというのは、 それほど難しいことではありませんので、私は、 可能な限り多くの人に、 自分が作った宗教の経典を書いてほしいと思っています。 そこで私は、 経典を書くという作業をマニュアル化することによって、 経典を書くのは難しそうだという先入観を払拭しようと考え、 「拡張可能経」 という経典を書きました。 この経典は、一言で言えば、 「経典作成マニュアル」だと言うことができます。

第三節第六項で、私は、 宗教の作り方には三つのものがあるという話をしました。 すなわち、寄せ集めによる作り方、系統樹的な作り方、 分類樹的な作り方、という三つです。 「拡張可能経」がマニュアル化しているのは、 分類樹的な作り方で作られる宗教の経典を書く方法です。 分類樹的な作り方というのは、宗教を特殊化するという作り方、 すなわち、 既存の宗教に教義を追加することによって新しい宗教を作る、 という作り方のことです。

[第七項]基底宗教と派生宗教

分類樹的な作り方で宗教を作るという作業には、 二つの宗教が関与することになります。 一つは、新しい宗教を作るための土台となる既存の宗教で、 もう一つは、それを土台として作られる新しい宗教です。 「拡張可能経」は、 それらの二つの宗教のそれぞれを意味する、 二つの言葉を定義しています。 二つの言葉というのは、「基底宗教」と「派生宗教」です。 「拡張可能経」では、 新しい宗教を作るための土台となる既存の宗教は 「基底宗教」と呼ばれ、 それを土台として作られる新しい宗教は「派生宗教」と呼ばれます。 そして、 基底宗教に教義を追加することによって派生宗教を作ることを、 基底宗教を「拡張する」と言います。

〇〇という基底宗教を拡張することによって作られた 派生宗教の経典を書きたい場合は、 その経典の中に、 「この経典に記述されている宗教の基底宗教は〇〇である」 と書きます。 そうすることによって、自分が書く経典の中では、 ○○の教義についての記述を省略することが可能になります。

場合によっては、基底宗教を指定するときに、 その宗教の名前だけでは概念が厳密に規定されないかもしれません。 そのような場合は、「ここで言う○○は、 「○○○○」という経典に記述されている宗教のことである」 というように、 具体的な経典の題名を記述しておくとよいでしょう。

派生宗教というのは、 基底宗教に何らかの教義を追加したもののことですから、 派生宗教の経典には、 基底宗教に追加した教義を書く必要があります。 基底宗教が何であるかという記述に続けて、 追加した教義についての記述を書けば、経典はそれで完成です。

[第八項]派生宗教の名前

派生宗教には、経典の中で名前を付けることも可能です。 派生宗教に名前がない場合、 経典の中で派生宗教に言及するためには、 「この経典に記述されている宗教」 と書かなければならないわけですが、 派生宗教に名前を付けておくと、 その名前を使って派生宗教に言及することが可能になります。 たとえば、 「この経典に記述されている宗教の基底宗教は〇〇である」 という記述は、 「□□」という名前を派生宗教に与えることによって、 「□□の基底宗教は〇〇である」 と書くことが可能になります。

派生宗教に名前を付けたいときは、その派生宗教の経典の中に、 「この経典に記述されている宗教を「□□」と呼ぶ」 という記述を書きます。 そうすると、 「□□」という名前が派生宗教に与えられることになります。

[第九項]イエス観音教

第三節第六項で、 宗教の分類樹的な作り方について説明したときに、 観音信仰という宗教を特殊化することによって 新しい宗教を作るという例を紹介しました。 その宗教の経典を、上で説明したマニュアル的な方法で書くと、 次のようなものになります。

[第七節]構造

[第一項]構造とは何か

この節では、 宗教の構造というものについて説明したいと思います。 そこでまず、そのための準備として、 構造とは何かという説明をしておくことにしましょう。

「構造」というのは、 ものとものとの間の関係によって構成される形のことだと 考えることができます。 つまり、個々のものが何であるかということにこだわらず、 それらの間の関係に着目したときに 浮かび上がってくる形が構造だということです。

何かと何かとを比較する方法には、さまざまなものがあります。 それがどのような要素から構成されているか、 すなわちそれがどのような集合を持っているかという観点から それらを比較することもできますし、 それを構成している個々の要素の間にどのような関係があるか、 すなわちそれがどのような構造を持っているかという観点から それらを比較することもできます。 何かと何かとを比較したとき、 どのような要素から構成されているか という観点から見た場合にはそれらは異なっているけれども、 要素と要素の間にある関係がどのような形を作っているか という観点から見た場合にはそれらの間には同一性が認められる、 ということがしばしばあります。 つまり、何かと何かが、集合としては異なっていても、 構造としては同一である、 ということがしばしばあるということです。

例として、 三すくみとじゃんけんとを比較してみましょう。 「三すくみ」というのは、 ナメクジと蛇と蛙という三種類の動物から構成される集合と、 ナメクジは蛇を食い、蛇は蛙を食い、 蛙はナメクジを食うという関係から構成される状態のことです。 そして「じゃんけん」というのは、 石と鋏と紙という三種類の物体から構成される集合と、 石は鋏に勝ち、鋏は紙に勝ち、 紙は石に勝つという関係から構成される遊戯のことです。 ナメクジと蛇と蛙から構成される集合と、 石と鋏と紙から構成される集合は、同じものではありません。 しかし、 三すくみにおいて「食う」という関係によって構成される形と、 じゃんけんにおいて「勝つ」という関係によって構成される形は、 同一のものです。 したがって、三すくみとじゃんけんは、 同一の構造を持っていると言うことができます。

[第二項]宗教の構造

宗教に関しても、構造という観点から比較することが可能です。 たとえば、宗教批評家の中村圭志さんは、 『人はなぜ「神」を拝むのか?』という書物の中で、 「新約聖書」の中の「福音書」が述べている教えと、 「法華経」が述べている教えには、 次のような共通点があると指摘しています。

中村さんは、「構造」という言葉ではなく、 「ロジック」という言葉を使っていますが、 「福音書」の教えと「法華経」の教えは類似した構造を持っている、 という指摘だと考えていいでしょう。

このように、一見するとまったく異なって見える二つの宗教が、 構造という観点から見ると類似しているということもあるわけです。

[第三項]鑑賞者にとっての宗教の構造

第五節第三項で、私は、 これから先の宗教の位置づけとしては、 芸術のジャンルの一つになるのがふさわしい、 という話をしました。 これからは、過去に作られた宗教も、 そして未来に作られるであろう宗教も、 多くの人々から鑑賞の対象にされることになるでしょう。 ところで、 芸術作品として宗教を鑑賞しようとしている鑑賞者にとって、 宗教の構造というのは、けっして無視することのできないものです。

その理由は二つあります。

第一の理由は、独創的な宗教というのは、 独創的な構造を持つ宗教のことだからです。 鑑賞の対象としての宗教の価値は、第一に、その独創性にあります。 表面的には新しそうに見える宗教であっても、 モデルとなる既存の宗教の構造を再利用して、 それを構成しているさまざまな要素を 単純に別のものに置き換えただけのものであったならば、 その宗教の独創性は著しく低く、 したがって価値も低いと評価されることになるでしょう。

第二の理由は、どのような構造を持っているかということが、 宗教の価値を判断する上での重要な着目点の一つだからです。 どれほど独創的な構造を持っていたとしても、その構造そのものに、 鑑賞者を感心させる何かがなかったならば、 独創的ではあるけれども面白みに欠ける構造である、 という評価で終わってしまう可能性があります。 もちろん、宗教の価値を判断する上での着目点は、 けっして構造だけではありませんので、 たとえ面白みに欠ける構造であったとしても、構造以外の着目点に、 鑑賞者を感心させる何かがあるならば、 その宗教は高く評価されることになるでしょう。

[第四項]教祖にとっての宗教の構造

前項で述べたように、 宗教を芸術作品として鑑賞しようとする鑑賞者にとって、 宗教の構造というのは無視することのできないものです。 しかし、宗教を作ろうとしている私たちにとっては、 宗教の構造というのは、 無視することのできないものとまでは言えません。

もしも、あなたが宗教を作る目的が、 鑑賞者からあなたの宗教を高く評価してもらうことならば、 あなたは、これから作る宗教の構造を意識する必要があるでしょう。 しかし、もしもあなたが、 それ以外の目的で宗教を作ろうとしているのならば、、 あなたは宗教の構造を意識する必要はありません。 あなたは、ただ単に自分が作りたい宗教を作ればいいのです。 芸術作品としての宗教の価値は、 鑑賞者が勝手に決めるものであって、その価値と、 宗教を作った教祖にとっての宗教の価値とは、 同じものではないからです。

また、自分が作っている宗教の構造が、 何らかの既存の宗教の構造と偶然に一致してしまうのではないか、 と心配する人がいるかもしれません。 確かに、せっかく苦労して宗教を作ったにもかかわらず、 「これはあの宗教と構造が同じだ」と言われるのは、 うれしいことではありません。 しかし、そのような心配は無用です。 なぜなら、既存の宗教の構造を意識的に模倣するのでない限り、 既存の宗教とまったく同じ構造を持つ 宗教ができてしまうというのは、 それほど高い確率で起きることではないからです。 ちなみに、 「福音書」の教えと「法華経」の教えは類似した構造を持っている という中村圭志さんの指摘を先ほど紹介しましたが、 それはあくまで類似であって、完全な一致ではありません。 それぞれの構造の細部を比較すれば、 それらの間にはさまざまな相違点があるはずです。

[第五項]数学的構造

先ほど私は、宗教を作ろうとしている私たちは、 宗教の構造を意識する必要はなく、 ただ単に自分が作りたい宗教を作ればいい、と言いました。 しかし、みなさんの中には、 「鑑賞者を感心させるような構造を持つ宗教を作ってみたい」 と思っている人がいるかもしれません。 そのような人に対して、 「こうすればそのような宗教を作ることができます」 というアドバイスができればいいのですが、 残念ながら私には、 そのようなアドバイスができるほどの知見はありません。 しかし、一つだけヒントを提供することは可能です。 それは、 「数学的構造を応用してみてはどうでしょうか」 というヒントです。

数学というのは、 構造についての学問だと言っても過言ではありません。 数学者は、 「数学的構造」と呼ばれるさまざまな構造について研究しています。 それらの数学的構造の中には、現実の世界に存在するものもあれば、 存在しないものもあります。 現実の世界に存在するもので数学的構造を持つものの多くは、 自然科学の対象になるものですが、 人文科学の対象の中にも、数学的構造を持つものがあります。

人文科学の対象で、数学的構造を持つものの例として、 カリエラ族というオーストラリアの原住民が持っている、 婚姻に関する規則があります。 その規則は、 「クラインの四元群」と呼ばれる数学的構造を持っている、 ということが知られています。

カリエラ族の場合は、彼らがクラインの四元群を知っていて、 自分たちの婚姻に関する規則を設計するために それを応用したわけではなくて、 自然発生的に形成された規則が たまたまクラインの四元群に一致していたわけですが、 彼らが無意識的に実行したことを、 意識的に実行することも可能です。 何らかの数学的構造を骨格にして、 それを構成している要素や関係に対して 具体的な事物を割り当てることによって、 その数学的構造を持つものを作ることができます。 具体的な事物として超自然的な存在者を割り当てれば、 その数学的構造を持つ宗教ができることになります。 興味深い構造を持つ宗教を作りたいと望んでいて、 数学にそれほど抵抗のない教祖のみなさんは、 このような宗教の作り方を試してみてはいかがでしょうか。

[第八節]柱数

[第一項]宗教と霊魂

第一節第四項で説明したように、宗教というのは、 矛盾のない超自然的な命題の集合のことです。 そして、超自然的な命題というのは、 何らかの超自然的な存在者に言及している命題のことです。 したがって、宗教を作るためには、 それによって言及される超自然的な存在者を作る必要があります。 そして、超自然的な存在者のうちで、 既存の宗教が最も好んで言及しているものが、 「霊魂」と呼ばれる存在者です。 みなさんの中には、 霊魂にはまったく言及しない宗教を 作ろうとしている人がいるかもしれませんが、 たとえそうだとしても、霊魂について考えてみることは、 おそらく無駄にはならないでしょう。

この節では、主として柱数(霊魂の個数)という観点から、 霊魂について説明したいと思います。

[第二項]霊魂の下位概念

第一章第二節第二項で説明したように、 超自然的な存在者のうちで、精神活動を持つものは、 「霊魂」と呼ばれます。 「霊」や「魂(たましい)」も、 「霊魂」と同じ意味を持つ言葉です。

神、仏、妖怪、妖精、鬼などは、霊魂の下位概念です。 ただし、それらの言葉は、 常に霊魂の下位概念を意味する言葉として使われるとは限りません。 たとえば、初期仏教においては、「仏」という言葉が、 「真理に目覚めた人間」という意味で使われていて、 霊魂の下位概念を意味する言葉としては使われていません。

霊魂の下位概念を意味する言葉として、 「神」や「仏」や「妖怪」などが使われる場合に、 それがどのような霊魂を意味しているのか、言い換えれば、 それらの言葉が意味しているものは、 霊魂であるという性質にどのような性質を追加したものなのか、 ということについては、 漠然とした共通の認識は存在しますが、厳密な意味は、 個々の宗教の中で定義されることになります。

たとえば、「神」という言葉は、多くの宗教において、 さまざまな霊魂が存在するうちで、 何らかの形で特別視されるものを指す言葉として 使われていますが、 どのような霊魂を「神」と呼ぶかということは、 それぞれの宗教ごとに大きく異なっています。 たとえば、神道においては、無数に存在する霊魂のうちで、 人間による「祀る」という行為の対象となるものを 「神」と呼ぶのに対して、 キリスト教においては、三位一体であるもの(すなわち、父なる神、 子なる神(イエス・キリスト)、 聖霊なる神という三つの位格を持つ一柱の霊魂であるもの)を 「神」と呼びます。

「霊魂」という言葉も、 その厳密な意味は個々の宗教の中で定義されます。 したがって、 「精神活動を持つ超自然的な存在者」という定義は、 あくまでこの経典における定義だと 考えていただきたいと思います。 ただし、「霊魂」という言葉の定義に関しては、どの宗教も、 それほど大きな差はないと思われます。

[第三項]柱数限定教と柱数不定教

宗教は、「神」と呼ばれる霊魂の柱数が、 特定されているかそれとも柱数が不定であるか、 ということにもとづいて分類することができます。

特定の柱数の霊魂のみを「神」と呼ぶ宗教のことを 「柱数限定教」と呼ぶことにしましょう。 総称してアブラハム宗教と呼ばれる、 ユダヤ教とキリスト教とイスラームは、 「YHWH」「主」「アッラーフ」などと呼ばれる 一柱の霊魂のみが神であって、 彼以外に神は存在しないという教義を持っていますので、 柱数限定教に分類されます。

それに対して、 「神」と呼ばれる霊魂の柱数が不定である宗教を、 「柱数不定教」と呼ぶことにしましょう。 神道や道教やヒンドゥー教は、 「神」と呼ばれる霊魂の柱数が不定ですので、 柱数不定教に分類されます。

ところで、「柱数が不定である」というのは、 具体的にはどのような意味なのでしょうか。 この場合の「不定」には、二つの意味があります。 一つは、「あまりにも柱数が多すぎて、 その総数を知っている人間が存在しない」という意味で、 もう一つは、 「「神」と呼ばれる霊魂の柱数が時間とともに変化する」 という意味です。 既存の柱数不定教の多くは、 これらの両方の意味で柱数が不定です。 たとえば、神道は、 これらの両方の意味で柱数が不定である宗教の一つです。 神道における神の柱数は、あまりにも多すぎて、 誰もその総数を知りません(神道においては、 崇拝の対象となる霊魂は 「八百万(やおよろず)の神」と呼ばれますが、 これは、その柱数が八百万柱だという意味ではなくて、 柱数がきわめて多いという意味です。 実際には八百億柱かもしれませんし、八百兆柱かもしれません)。 そして、その柱数は、時間とともに変化します。 なぜなら、神道においては、 人間による「祀る」という行為の有無によって、 神であるか神でないかということが左右されるからです。 たとえば、怨霊を鎮めるためにそれを祀ることにすれば、 神の柱数は増加することになりますし、 祀られていた神が祀られなくなったために、 それが神から妖怪に零落すれば、 神の柱数は減少することになります。 柱数不定教を作る場合には、神道のように、 霊魂が神になったり神ではなくなったりするという ダイナミックなメカニズムを構築すると面白いと思います。

既存の柱数不定教の多くは、 きわめて多数の霊魂を「神」と呼んでいます。 しかし、神の柱数がきわめて多数であるということは、 柱数不定教であるための必要条件ではありません。 神の柱数がきわめて少数であっても、 その柱数が時間とともに変化するならば、 その宗教は「柱数不定教」と呼ばれることができます。 そのような柱数不定教は、 既存の宗教の中にはほとんど例がないと思われますので、 作ってみると面白いでしょう。

[第四項]n神教

神の柱数をn柱に限定する柱数限定教を、 「n神教」と呼ぶことにしましょう。 たとえば、nが三十五柱である柱数限定教は、 「三十五神教」と呼ぶことができます。

最初に神の柱数を決めておいて、 そののちその柱数の神を作るというのは、 宗教の作り方として面白いと思います。 たとえば、神の柱数は二柱と決めたとすると、 次のような宗教を作ることができます。

nがきわめて多数であるようなn神教というのは、 既存の宗教の中にはなさそうです。 そのようなn神教としては、 たとえば次のようなものを作ることができます。

[第五項]一神教

nが一柱であるn神教は、「一神教」と呼ぶことができます。 前述したように、アブラハム宗教は、 「YHWH」「主」「アッラーフ」などと呼ばれる 一柱の霊魂のみを「神」と呼びますので、 一神教に分類されることになります。 アブラハム宗教というきわめてメジャーな宗教が一神教ですので、 一神教というのは人類にとってとても身近な存在です。 しかし、だからと言って、 一神教の可能性はすでに開拓し尽くされた、 ということにはなりません。 アブラハム宗教ではない一神教にも、 まだまだ開拓の余地があります。

ユダヤ教においても、キリスト教においても、 そしてイスラームにおいても、 「神」と呼ばれる霊魂が持っている重要な属性の一つは、 「天地を創造した」というものです。 したがって、 「天地を創造した」という属性を持つ一柱の霊魂のみを 「神」と呼ぶ宗教を作ったとすると、 それはアブラハム宗教の亜流とみなされるでしょう。 しかし、 「天地を創造した」という属性を持たない一柱の霊魂のみを 「神」と呼ぶ宗教を作れば、 それは、一神教でありながら、 アブラハム宗教とはかなり違ったものになります。 たとえば、次の宗教は一神教の例ですが、 アブラハム宗教の神とは まったく異なる性質を持つ霊魂の存在を主張しています。

[第六項]交替神教

バラモン教というのは、交替神教の一例だとされています。 「交替神教」というのは、「複数の神々の存在を認めるが、 崇拝される神はそれらのうちの一柱のみで、 その一柱がどの神であるかということが時間とともに変化する宗教」 という意味で使われる言葉です。

私たちは、「交替神教」という言葉を、 本来の意味から少し変更して、 「「神」と呼ばれる霊魂の集合が時間とともに変化する宗教」 という意味で使うことにしましょう。 そうすると、神道がそうであるように、 柱数不定教の多くは交替神教であるということになります。

柱数限定教の中で最もメジャーなものはアブラハム宗教ですが、 アブラハム宗教の神が交替するということは考えられませんので、 アブラハム宗教は交替神教ではありません。 柱数限定教でかつ交替神教である宗教というのは、 既存の宗教の中にはほとんど存在しないように思われます。 ですから、柱数限定教でかつ交替神教であるような宗教は、 作ってみると面白いかもしれません。 その場合、 どのようなメカニズムで神が交替するのがいいかというのが、 作っていて面白いところということになるでしょう。 柱数限定教でかつ交替神教であるような宗教としては、 たとえば次のようなものを作ることができます。

参考文献

一神教学会公式サイト > 経蔵 > 宗教の作り方